この記事は、読むのがつらいかもしれません。でも、同じ気持ちの方がいるなら、「あなただけじゃない」と伝えたくて書きます。
私はシングルマザーです。息子が不登校になり、学校とのトラブルが続き、親子関係も崩壊しかけた末に、うつ病を発症しました。
私の場合——養育費なし、母子手当なし。美容院はクイックカット1,600円。自分にかけるお金をとことん削る日々でした。
不登校の息子を抱え、追い詰められていった日々
すべてを1人で抱えていた
息子が幼稚園の時に離婚してから、ずっと子育てをしてきました。
親族はほぼ全員医者という環境。離婚して経済的に不安定になった私は、「せめて息子を医者にすれば安泰だ」と自分に言い聞かせていました。今振り返ると、それは信念というより強迫観念でした。親族の集まりで「息子さんは医者になるんでしょ?」と聞かれるたび、「もちろん」と答える自分がいた。その期待に応えなければという焦りが、離婚後のうつ病の種の一つだったのだと思います。結婚を機に仕事を辞めて専業主婦になっていた私が、離婚後に元の職場に復帰してからは必死に働いて、医学部の学費を貯めてきました。
息子が中学受験で難関私立中学校に合格した時は、「これで道が開けた」と心から安堵しました。
でも、その安堵はすぐに崩れました。
膨らんでいく金銭的な不安
私立中学校は年間約100万円。それに加えて、不登校で遅れた分を取り戻すための個別塾が1時間8,000円。みんなが当たり前のように塾に通う地域で、シングルマザーの私の財布は限界に近づいていました。
フリースクールも専門家も費用が高く(支援制度はこちら)、シングルマザーには重すぎました。それでも息子のためにと思いましたが、息子は「知らない人になんで自分の話をしなくちゃいけないの?」と会おうともしませんでした。
公立中学校に転校してからは就学援助制度を利用できるようになり、給食費の負担が軽くなりました。お金の心配が少しでも減ると、心にほんの少しだけ余裕ができる。シングルマザーにとって、制度のありがたさは想像以上でした。
学校からの電話に怯える毎日
私立中学校に在籍していた頃。息子が学校に行けなくなり、行けるようになっても成績は落ち、友達とふざけ合っただけで呼び出される日々が始まりました。
私ばかりが辛いと思っていましたが、息子の方がもっと苦しんでいました。学校を辞めさせられ、友達と離れ、新しい学校にも馴染めない。ADHDの特性で「普通」ができない自分に苛立ちながらも、どうすればいいか分からない。部屋から出てこない日が続き、ご飯も食べず、大好きだった料理すらしなくなった時期がありました。あの子なりに、必死に耐えていたのだと思います。
- 「1時間後に来てください」と突然の呼び出し
- LINEの内容を細かくチェックされ、報告を求められる
- 担任から息子への心ない言葉(「お前のことは信用していない」)
いつ電話が来るかわからない恐怖。トイレにもスマホを持って入る生活が続きました。
出席と欠席に振り回される日々
息子が学校に行けた日は、自分まで生き返ったような気持ちになりました。でも次の日に「今日は無理…」と布団から出てこないと、私も糸が切れたように寝込んでしまう。
出席と欠席に、私の精神状態がまるごと左右される——そんな日々が何ヶ月も続きました。息子の「行く」「行かない」に一喜一憂するうちに、自分自身の感情すらコントロールできなくなっていました。
私の場合——朝のアプリで休み連絡を入力する日が続きました。息子の体調は朝の時点では「しんどい」としか分からなくて、毎日がそのまま欠席になるか持ち直すかの繰り返しでした。
朝は「今日こそ行ってくれるかも」と期待し、行けないと分かった瞬間にどん底に突き落とされる。怒り、自責、悲しみ、諦め——1日の中で何度も感情が入れ替わり、自分が今何を感じているのかすら分からなくなっていた。
息子を監視・管理するようになった
学校からのプレッシャーに押されて、私は息子を管理するようになりました。
- スマホの使用時間を厳しく制限
- LINEの内容をPCで随時チェック
- 位置情報を常に監視
- 同じ学校のママ友に提出物を確認し、スケジュールを立てて息子に押し付ける
中学受験の時と同じ感覚で、息子に勉強を強要していました。
息子の「学校が嫌だ」という言葉を、私がめんどくさいことをする時の「嫌」と同じレベルで一瞬でも捉えてしまった自分を、今でも許すことができません。あれは「嫌」ではなく「行けない」だった。アレルギーの子に「食べろ!」と言っているのと同じことを、私はやっていたのです。
でも、小学生の時は「この学校に入りたい」という目標があったから耐えられた。意欲を失った中学生の息子に、同じ方法は通用しませんでした。
親子関係の崩壊
小さい頃からの癖で、靴を脱いだら必ず揃える子でした。反抗期の最中でも、玄関の靴だけはきちんと並んでいた。それが、ある日から靴が脱ぎっぱなしになっていました。些細なことかもしれません。でも「この子のルーティンが崩れている」ということが、私には何よりの危険信号に見えました。息子の中で、何かが音を立てて壊れ始めていたのです。
そして、息子は激しく反抗するようになりました。
- 家出をする
- 物を蹴る、物を投げる
- 怒鳴り合いの喧嘩が毎日
- 部屋に入っただけで「出ていけ!」と怒鳴られる
私が「あなたのためを思って」と言えば言うほど、息子は離れていきました。
息子から一番刺さった言葉を言われました(親子関係の記録)。その一言で崩れ落ちました。離婚しなければ、もっと時間もお金もあったかもしれない。でも離婚は私が選んだ道です。
あの頃、私は息子の「できなさ」に毎日イライラしていました。何度言っても忘れ物をする、提出物を出さない、部屋は散らかり放題。「なんでこんな簡単なこともできないの!」と何百回責めたか分かりません。後にADHD不注意型の特性かもしれないと知った時、あの叱責の一つ一つが息子の心をどれほど傷つけていたかと思い、自分が許せなくなりました。特性を知らずに「怠けている」「やる気がない」と決めつけて追い詰めていた——その後悔は、うつ病の症状の中で何度も私を苦しめました。
学校行事での孤独
学校説明会も体育祭も、夫婦で来ている家庭ばかりでした。ひとりでぽつんと座る孤独感は、想像以上に堪えました。
息子が退学してから、私立中学校のママ友たちとの連絡が自然と途絶えていきました。誰が悪いわけでもない。子どもが同じ学校にいるから繋がっていた関係だったのだと思います。それでも、毎日のように連絡を取り合っていた日々が突然なくなると、寂しさだけがぽっかり残りました。ランチ会の誘いもなくなって、私は一人になったのだと実感しました。
あの頃は、何もしたくなかった。ご飯も作れない、掃除もできない、布団から出られない日が何日もありました。「母親失格だ」と自分を責めながら、それでも息子の前では笑顔を作ろうとしていた。後から知ったことですが、SNSには同じように追い詰められたお母さんが「今日は何もできなかった。でも生きてた」と投稿していて、その言葉を見て初めて「私だけじゃないんだ」と思えました。
他の記事にも書いたけど、息子の学校行事に足が向かなくなった時期がありました。息子が「来なくていい」と言ったのを真に受けて、素直に行かなかった日のことは、今も後悔しています。
外に出ることが怖くなった
次第に私は外に出るのが怖くなりました。笑いながら通学する生徒たち、家族そろってショッピングを楽しむファミリー。見るたびに胸がぎゅっと締めつけられました。退学を迫った学校の制服を着た子を見かけると、動悸と冷や汗が止まらなくなりました。
「なんでみんなは普通に学校に行けるのに、うちの子は……」。その問いが頭の中をぐるぐる回り続けました。今思えば「普通」を息子に押し付けることが間違いだったのですが、あの頃の私にはそんな余裕はありませんでした。
合格した日の嬉しそうな顔と、今のうつろな目をした顔が別人のように見えた。普通に学校に行って、普通に友達と笑い合って、普通に帰ってくる——その「普通」がどれほど尊いものだったのか、失ってから気づいた。
自分が壊れていく感覚
私はもともと身なりを気にするタイプでした。息子が入学した私立中学校の保護者会で知り合ったママ友に、「キラキラ輝いた表情をしていて話しかけやすかった」と言われたこともあります。
でも不登校が長引くうちに、その頃の面影はすっかり消えていました。疲れ果ててボロボロの状態。あの頃のキラキラした自分は、もうどこにもいなかった。
夜もまともに眠れませんでした。30分から2時間おきに目が覚め、「明日は学校に行けるだろうか」と考えてしまう。やっと眠れても、夢の中で先生に土下座して「息子を退学にしないでください」と号泣しているのです。目が覚めても涙が止まらない。この夢は退学後も半年以上続きました。
眠れない夜は、同じ問いが頭の中で延々と堂々巡りを繰り返した。「あの時、別の学校を選んでいれば」「私の育て方が間違っていたのか」「息子はこの先どうなるのか」——どれだけ考えても答えは出ないのに、思考を止めることができなかった。
でも息子のことで学校から厳しい指導を受ける日が増えるうちに、気づけば1年間美容院に行けないほど、うつが進行していました。ボブだった髪型は肩のずっと下まで伸びていた。鏡を見る気力すらなかったのです。
友達との集まりの後で「私、今ちゃんと笑えてた?」と聞いたことがあります。鏡の前に立つのも嫌でした。そこに映っているのは、私の認めたくない私だったから。
髪の毛が異常に抜け始めたのも、この頃でした。シャンプーのたびに今までにない量の髪が指に絡まってくる。ベージュの絨毯に落ちた黒い髪の毛が3日もすれば一面に目立つほどで、見るたびにぞっとしました。ネットで抜け毛対策のアイテムをいくつも買ったけれど、効果があったかどうかもわからない。

そもそもいちばんしんどい時期は、お風呂に入ることすらできなかった。濡れティッシュで身体を拭くのが精いっぱい。不潔になっていく自分が、たまらなく嫌でした。
ご飯もろくに食べられないのに、薬の副作用で体重だけは増えていく。通院で外に出なければいけない日は、帽子を深くかぶって下を向いて歩きました。知り合いに会いたくなかった。あの頃のキラキラしていた私を知っている人に、今の姿を見られたくなかった。
私の場合——薬の副作用で体重が増えて、知り合いに会うのが怖くなりました。スーパーのレジ前で知り合いがいないか確認する癖がついた時期です。
学校に呼び出されるたびに、帰りの電車の中で「さっきの言い方、変じゃなかったかな」「また面倒な親だと思われたかも」と延々と考えてしまう。面談が終わっても、頭の中ではずっと続いている。家に帰ってからも反芻が止まらず、自己嫌悪で動けなくなる夜がありました。
限界で市の相談窓口へ
抱えきれなくなった私は、思い切って市の相談窓口に足を運びました。発達障害の相談窓口でしたが、息子のことだけじゃなく、私自身の話も聞いてくれて。相談員さんにこう言われた瞬間、堰き止めていたものが一気にあふれました。
両親には心配をかけたくなくて、ずっと誰にも言えずにいたんです。その重さを、たった一言がほぐしてくれました。
興味のあった趣味にも、関心がなくなっていきました。外を歩いていても、買い物袋の重さしか感じない日が続いたのです。好きだった服屋に入っても、手に取った服の色が後から思い出せない。帰り道、信号が変わる音だけが妙にはっきり耳に残りました。
何をしていても、頭の中はずっと息子のことでした。仕事中にパソコンの画面を見つめながら、気がつくと手が止まっている。服屋に入っても、手に取った服を後から思い出せない。私の時間は全部、息子の不登校に持っていかれていたんです。自転車に乗れば1日に4回転ぶほど、集中力もゼロになっていました。
運転中も頭の中はネガティブなことばかりでした。ある日、車が廃車になるほどの事故を起こしました。それ以来、何年間も一度も車のハンドルを握っていません。
食べることへの関心もなくなりました。お腹がすいたという感覚が、一切なくなったのです。1日2日何も食べなくても空腹を感じない。固形物がのどを通らなくなり、心配した従姉妹がスープやゼリーを段ボールいっぱいに送ってくれました。息子のために料理はするので一応口にはするけれど、味がよく分からない。ただ噛んで飲み込んでいるだけの状態でした。
ずっと昔、まだ離婚する前に家族3人で笑いながらご飯を食べていた頃を思い出しながら、私は食事をしていました。息子は今頃、部屋で美味しいと思って食べてくれているかな——と、食事をしている息子を想像しながら、一緒に食べている気分を楽しんだ。それが私の精一杯でした。
食事だけではありません。日常のふとした瞬間に、あの学校の記憶が押し寄せてきました。
退学した学校の制服や教科書を見ると、嫌な記憶が次々と蘇り、動悸が止まらなくなって慌てて薬を飲むこともありました。前の学校に関係するものはできる限り捨てました。でも、息子が3年間憧れて、中学受験の合格発表の日に嬉しそうな顔をしていた学校の制服だけは、どうしても捨てられなかった。普段見えない押し入れの奥にしまっておきました。
物は整理できても、心の中はそう簡単には片付きませんでした。
一番辛かったのは、息子がせっかく仲良くなって喜んでいた友達と離れ離れになって苦しんでいたことです。息子は今何を考えているのだろう。前の友達との楽しかった日々を思い出しながら、部屋で1人ギターを弾いているのだろうか。そんなことばかり考えてしまう。
息子が不登校の間はずっと家で1人にさせておくのがかわいそうで、仕事時間を減らしてもらって早く帰るようにしました。仕事以外の友人からの誘いは、全部体調を理由に断りました。うつ病になったなんて恥ずかしくて言えなかった。「キラキラしたママ」という印象を持っているママ友に、今の疲れ切った姿を見られたくなかった。難関校に息子が入学した頃とは、短期間でまるで別人のようになっていました。息子も別人になっていたけれど。
苦しくて耐えられなくなり、心療内科に泣きながら駆け込んだこともありました。
🆘 不登校の親が限界を感じたときの相談先5選
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無料で使える窓口・電話1本でOKの相談先をまとめました
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- スクールカウンセラー(公立中学なら無料。親だけでも利用可能)
- 市区町村の教育相談窓口(不登校専門の相談員がいる自治体も)
- 心療内科(「うつ病の手前」でも受診OK。まず電話)
- よりそいホットライン 0120-279-338(24時間無料。匿名OK)
- 市区町村の発達障害相談窓口(ADHDグレーゾーンの相談も可能)
「相談するほどのことじゃない」と思っている人こそ行ってほしい。私も1ヶ月かかった。
どこか遠くに消えたいな……と思いながら、電車に乗って始発駅から終着駅まで何度も往復したこともあります。こんなに辛い日が続くなんて耐えられない。消えたい。でも私がいなくなったら、息子はもっと悪い方向に行くかもしれない。その思いだけで必死にもがき、生活を続けました。
後からICカードの履歴を見返したら、同じ路線を1日に何往復もしていた日がいくつも残っていました。よくあの時期を生き延びたなと、今でも思います。
眩暈で倒れた日もあります。ちょうど息子の部屋の前で倒れたので、音を聞いた息子がドアを開けて、「……何やってんの。」と一言。そっけない口調でしたが、わざわざドアを開けてくれた。心配してくれたんだろうなと思うと、不思議と嬉しくなりました。反抗期で口もきいてくれない息子の、小さな優しさでした。
「こんなに辛いのは自分だけなのでは」と思っていませんか? 私もそう思っていました。でも、不登校の子を持つ親の多くが同じ苦しみを抱えています。あなたは1人ではありません。
不登校を経験した親は、深いトラウマを抱えています。息子が高校に通えるようになった今でも、朝「行ってきます」の声が聞こえないと心臓が止まりそうになる。「また行けなくなったらどうしよう」「就職しても続けられなかったらどうしよう」——その恐怖は、不登校が終わっても消えないのです。そして不安になるたびに、不安になる自分をまた責めてしまう。いつになったら、この呪縛から解放されるのだろう。
うつ病の発症
身も心も限界でした。
- 朝起きられない
- 涙が止まらない
- 仕事に行く気力がない
- 「私がいない方がこの子は幸せなんじゃないか」と考える
1つでも当てはまるなら、心療内科の電話予約を。予約を入れるだけで「あと◯日で話せる」と思えるようになります。
病院に行くと、うつ病と診断されました。
息子の退学が決まり、自分が勧めた学校で息子を傷つけてしまったという自責の念が、うつ病をさらに悪化させました。
心療内科の薬を飲み始めてから、人生で一度も太ったことがなかった私の体重が49kgから65kgに増えました。鏡を見るたびに知らない人が映っている。髪は伸び放題、服も入らない。どんどん自分が嫌いになって、どんどん人に会いたくなくなりました。それでも学校行事の日だけは、母に体型カバーできるワンピースを借りて、髪を束ねて化粧も頑張って「元気でキラキラした女性」を装いました。装っている自分すら嫌いでした。
薬の副作用と、深夜の暴食
心療内科で処方された薬は、私の睡眠を助けてくれた一方で、いくつもの副作用もありました。
薬を飲み始めてから現れた副作用
- 通い始めに発症:手先のしびれ/足のむずむず感/夜中に体がソワソワして家の中を歩き回る
- 飲み始めから今でもずっと:悪夢
- 1年ほど経つと:体重が増える(前述49→65kg)
朝起きると、枕元に置いたお茶のペットボトルが空になっていることが度々ありました。悪夢にうなされながら、寝ている間に何度も水を飲んでいたらしいのです。覚えていないけれど、枕元の空容器が証拠でした。夜中に頻繁にトイレに行きたくなるので本当は飲みたくなかったのに、飲まないと眠れない。飲んで寝る方が、起きたままネガティブなことをぐるぐる考え続けるよりマシだったのです。
そして、もう一つ。無意識のうちに食べ物をあさって大量に食べてしまう深夜の暴食もありました。朝起きると、お菓子やパンの袋が台所に転がっている。冷蔵庫をあさった跡も残っている。日中は食欲がなくて何も食べない日があるほどなのに、なぜか深夜だけ、尋常じゃない量を食べていたのです。
起きてきた息子が、台所の光景を見てこう言ったことがありました。
私しか家にいないのに、私自身も覚えていない。そう答えるしかありませんでした。
薬と引き換えに睡眠を買っているような感覚でした。副作用もしんどいし、太っていく自分も嫌いだった。でも、眠れないままだと、息子に真剣に向き合う余裕がどんどんなくなっていく。その天秤で、私は薬を手放せなかったのです。
当時のやりとりを載せることには迷いがありました。でも、同じ状況で苦しんでいるお母さんに「あなただけじゃない」と伝えたくて、息子の了承を得て掲載しています。
勉強のことで口を出すたびに、LINEでこんな言葉が返ってきました。

「子供の努力踏み躙るのが親なのね」「一人で生きたい」——隣の部屋にいるのに、LINEでしか会話ができない。画面に表示される息子の怒りと絶望を、ただ受け止めることしかできませんでした。この「一人で生きたい」という言葉が、私の心を一番深くえぐりました。
市の発達障害の相談窓口に行った日のことは忘れられません。相談員の方がこう言ってくれた瞬間、堰を切ったように涙があふれました。
夫がいれば愚痴を言えたかもしれない。両親に話せば息子の印象が悪くなる。高齢の親に心配もかけたくない。ずっとずっと、ひとりで抱え込んでいました。人に話した瞬間に、我慢していたものが全部溢れ出しました。
心療内科、スクールカウンセラー、市の相談窓口——振り返れば私は無意識のうちに「誰かに話を聞いてほしい」「自分を責めないでほしい」と求めていたのだと思う。抱え続けた時間が長すぎて、「助けて」と言う方法すら忘れていた。
やれることは全部やりました。全部です。スクールカウンセラー、心療内科、フリースクールの見学、専門家への相談、スマホの管理、勉強の強制——そのすべてが不正解でした。一見何もしていないように見えるかもしれません。でも私たちは何もしていないんじゃない。全部やって、全部裏目に出て、最後に残った選択肢が「何もしない」だっただけなのです。
少しずつ、光が見えてきた
転機は、私が「コントロール」を手放した時でした。
息子が公立中学校に転校し、再び不登校になった時、私はもう追い詰める気力が残っていませんでした。良い意味で「諦めた」んです。
- 勉強しろと言うのをやめた
- スマホの監視をやめた
- スケジュール管理をやめた
- 「医者にさせなきゃ」という思い込みを手放した
すると不思議なことに、息子の反抗は少しずつ収まっていきました。
部屋に入っただけで怒鳴っていた息子が、ある日キッチンから「こんな料理作ったけど、食べてみて」と持ってきたんです。
その時、私は泣きました。こんな些細なことが、こんなに嬉しいなんて。
些細な日常の幸せを取り戻すまでに、長い時間がかかりました。勉強のことで口出しするのをやめて通信講座に任せるようになってから、親子の間に少しずつ会話が戻ってきたのです。あの頃の私と同じように追い詰められている方がいたら、私が少し楽になれたきっかけも読んでみてください。
通信講座との出会いが、親子関係も変えた
中学3年生になった息子に自宅学習を提案した時、私は一つだけ決めていました。
「口出しはしない。見守るだけ。」
通信講座ならアプリで進捗が見えるので、息子に「やったの?」と聞かなくて済みます。息子は自分のペースで、体調のいい時間にタブレットで勉強するようになりました。
親が管理しなくなったことで、息子は自主的に勉強するようになり、結果的に志望校に合格。
私のうつ病も、息子との関係が改善するにつれて、少しずつ回復していきました。
私の場合——光が見えたのは、息子が「模様替えしたい」と言い出した日でした。あの日から、家の中の空気が少しずつ変わり始めた。
不登校の子を持つシングルマザーへ|同じ思いをしているお母さんへ
同じ悩みを持つ方の声を、ネットの相談掲示板でたくさん見てきました。
見えないところで、不登校の親たちはどれだけ涙を流してきたか。最初から「無理しないで、行かなくていいよ」なんて言える親は、ほとんどいません。学校に行ってほしいに決まっている。何が何でも行かせようと、あの手この手で頑張った。その結果、子どもの様子がおかしくなって初めて気づいたのです——無理に行かせることで、さらに心を壊してしまう子がいることを。
「学生服の学生を見るだけで涙が出てしまう」
「友達の子の進学を、おめでとうとも言ってあげられない」
「誰にも話せず、心がしんどいです」
——全部、あの頃の私と同じです。
もし今、お子さんの不登校で追い詰められているなら、伝えたいことがあります。
- あなたのせいではありません
- 1人で抱え込まないでください
- 「こうあるべき」を手放すと、楽になります
- 子どもは、見守っていれば自分で動き出します
完璧な親である必要はないんです。私は息子を監視し、管理し、追い詰めて、最悪の状況を作りました。でも、それを手放した時に、親子関係は再生しました。
今、高校生になった息子は笑顔で毎日を過ごしています。あの頃は部屋にこもってご飯を食べていた息子が、今はリビングで向かい合ってご飯を食べてくれる。「ママ、今日こんなことがあってさ」と学校の話をしてくれる。息子の笑顔が見られること、それが今の私にとって何よりの幸せです。医者にならなくてもいい、偏差値が高くなくてもいい。この子が笑って暮らしてくれているだけで、もう十分だと心の底から思えるようになりました。
今がどんなにつらくても、必ず変わる日が来ます。
我が家を救ってくれた通信講座
「見守る子育て」に切り替えるきっかけになった自宅学習について、こちらの記事でまとめています。
私が通信講座を選んだのは、息子の勉強のためだけではありません。私自身のメンタルを守るためでもありました。「勉強しろ」と言わなくていい。進捗を管理しなくていい。息子のことは家庭学習に任せて、私は自分の回復に集中できた。それが本当に救いでした。
みっこの本音——壊れた自分も、母業の一部だった
うつ病になった自分を、ずっと恥ずかしいと思っていました。でも今は、壊れたことも母業の一部だったのだと、少しずつ受け入れられるようになってきました。少しずつ、です。完全にはまだ。
同じように壊れかけているお母さんへ。病院に行っていいです。薬を飲んでいいです。自分のために時間を使っていいです。それは、母業をサボることじゃない。
勉強のことで追い詰められていた私が、少し楽になれた経緯をこちらの記事にまとめています。同じように苦しんでいるお母さんに、読んでもらえたら嬉しいです。
- 不登校の息子を抱えるシンママが、管理・監視・強要でうつ病を発症した記録
- 「出席と欠席に一喜一憂」「体重49→65kg」「美容院1年行けず」——限界のサインを放置すると本当に壊れる
- 転機は「コントロールを手放した」こと。壊れきってから初めて家の空気が変わった
- 通信講座は息子の勉強のためだけでなく、母のメンタルを守る選択でもあった
- 相談先5つ(SC/教育相談/心療内科/よりそいホットライン/発達障害窓口)。電話予約だけでも楽になる
- あなたのせいではない。1人で抱えない。「こうあるべき」を手放していい


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