難関私立中学校に合格した息子。でもその喜びは長くは続きませんでした。
入学してすぐに起立性調節障害が再発し、学校に行けなくなり、先生との関係も悪化。1年で退学を選び、地元の公立中学校に転校しました。
この記事では、私立中学校の退学から公立への転校、そしてその後の不登校について、包み隠さずお話しします。
退学を決めた日のこと
中学1年生の春休み。膨大な課題をこなせず、「これを提出しないと赤点で学校を辞めさせられる」というプレッシャーの中、息子は夜遅くまで机に向かっていました。
退学を決めるほんの数日前のことです。”課題を全部出して赤点を取らなければ残れる”——そのチャンスをくれた校長先生宛ての反省文を書くよう、担任の先生から指示されました。課題の提出期限が迫る中で、です。
息子は3時間かけて鉛筆でA4用紙にびっしりと書きました。『自分に甘かった』『友達と卒業したい』『行動で見せていきたい』——12歳の子が、自分の弱さを認めながらも前を向こうとする言葉を並べていました。
でも先生に持っていくと、『校長先生に出すのにこんな薄い紙じゃダメだ。もっとちゃんとした紙に、鉛筆じゃなくてペンで書き直して明日持ってこい』と突き返されました。一緒に選んだ紙だったのに。字が汚い息子が丁寧に書こうと必死で頑張ったのに。子どもが一生懸命気持ちを綴った反省文を、内容ではなく見た目で返したのです。
その夜、課題も終わっていないのに反省文の書き直しもしなければいけない。深夜3時まで机に向かっていた息子から、LINEが届きました。次の一言でした。
。
隣の部屋にいるのに、LINEで送ってきました。面と向かって言えないほど、重い決断だったのだと思います。すぐに部屋に行くと、息子は布団をかぶったまま肩を震わせて嗚咽を漏らしていました。
学校に残りたくて必死で反省文を書いていた子が、わずか数日後には学校を去ることを決めた。『辞める』ではなく『諦める』——その言葉の響きが、今でも忘れられません。本当は続けたかったのに、心が折れてしまった。仕方ないから諦める。『辞める』と『諦める』では、込められた想いがまるで違います。あの夜のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなります。
私は「分かった。よく頑張ったね」と答えるのが精一杯でした。
退学を避けたかったのは、本当に息子のためだったのか。今振り返ると、”私立中学校を退学させた親”と見られることへの恐れも確かにあったと思います。
友達への別れのメッセージ
息子が友達に退学を伝えたのは、それからしばらく経ってからでした。丸1日ベッドの上で放心状態だった息子が、ようやく友達一人一人にLINEでメッセージを送り始めました。すぐに報告できなかったのは、友達との別れを受け入れる覚悟がまだできていなかったからだと思います。大好きな友達に『学校を辞めることにした。今までありがとう。お前とはこんなことをしたよな。楽しかった。』——そう打つまでに、どれだけの葛藤があったのか。
友達からの返事は、最初は信じられないという反応でした。『え…まじ?』『冗談やんな?』『なんでなん。残ってよ』——本当だと分かると、『会えなくなるの嫌や』『残ろうや』と引き留める言葉が続きました。
そして実際に辞めた日、友達からこんなメッセージが届きました。『次の学校では勉強じゃなくてもいいから何かで1番取れよ』『今までいっぱい遊んだな。またカラオケ行こうな』——応援や、これからも仲良くしようという温かい言葉ばかりでした。たった数ヶ月しか一緒にいなかったのに、こんなに想ってくれる友達がいる。息子は恵まれていたのだと思います。
たった数ヶ月しか通っていないのに、息子にとってその友達は本当に大切な存在だったんです。丁寧に、一人一人に感謝を伝えている姿を見て、私は涙が止まりませんでした。
退学という結果を前にして、私はどうしてもこの問いに向き合わざるを得ませんでした。
なぜこの学校を選んでしまったのか
正直に言うと、この学校を選んだ理由は校風だけではありませんでした。私の親族はほぼ全員が医師で、「医者になるのが当たり前」という空気の中で私は育ちました。離婚してシングルマザーになってからも、「せめて息子を医者にしなければ」という思いがずっと頭から離れなかった。医学部進学実績の高い中高一貫校にこだわったのは、息子のためというより、私自身が親族の期待に応えたかったのだと、今になって分かります。
別の記事でも書きましたが、私が中学生だった頃、この学校は自由で伸び伸びした校風の学校でした。「この学校なら、友達とのんびり青春を過ごせる」と思って息子に勧めたんです。
でも数年の間に学校の方針は大きく変わり、進学実績を重視する厳しい管理型の学校になっていました。
- 忘れ物をしただけでクラス全員の前で強く叱責される
- LINEの内容を細かくチェックされ、些細なことで親が呼び出される
- 担任から「お前のことは信用していない」「公立に転校しろ」と言われる
- 退学の権限がない教師が、勝手に退学を促す
- 入学時に配られた規定書には「赤点1つで退学」などとは一切書かれていないのに、あたかもルールであるかのように突きつけられた
在籍中、学校からの着信が何より怖かった。いつ電話がくるか分からないのでトイレにもスマホを持っていく生活。着信があるたびに心臓が跳ね上がり、学校の番号を見ると手が震えました。「また何かやったのか」「今度は何を言われるのだろう」——同時に「うちの子が迷惑をかけてすみません」と常に申し訳ない気持ちで頭を下げ続けていました。呼び出しのたびに仕事を早退し、先生の前で何度頭を下げたか分かりません。
私はそんな変化を知らずに息子を入学させてしまいました。その自責の念は、今も消えません。
普段は人と争うのが苦手で、できれば波風を立てたくない性格です。先生に言い返すなんて考えたこともなかった。でも退学を促す先生の言葉を聞いているうちに、「この子を守れるのは私しかいない」と思いました。あまりに理不尽な対応に、証拠を残さなければと思い、わざわざボイスレコーダーを買いました。それ以降、先生との面談では必ず録音するようにしました。ボイスレコーダーを握りしめて先生の前に座る。証拠がなければ「言った・言わない」で終わる——録音は、臆病な私にとって最後の砦でした。経緯書も書きました。自分が書いた文章を読み返しながら「こんなことまでしないといけないのか」と悔しさがこみ上げた。人と争うのを避けてきた私に、子どもを守りたいという気持ちが信じられないほどの力をくれたのです。
今でもこのボイスレコーダーには当時のやりとりが記録されていますが、怖くてボタンに触れることもできません。
録りたかったんじゃない。後で聞き返したいわけでもない。ただ、何かあった時に自分の身を守る道具が、もうそれしかなかった。録音ボタンだけ押せる親になってしまった自分が、家に帰ってから一番悲しかった。

後から分かったことですが、退学を促していた先生には、実際のところその権限がありませんでした。教頭はそのことを知らなかった。「うちの生徒ですか?」「今後のことを考えてもらわないと」——校長の言葉にも耳を疑いました。怒りと申し訳なさが交互に押し寄せる日々。学校が悪いのか、息子が悪いのか、私が悪いのか。感情の着地点が見つかりませんでした。
後になって息子にADHD不注意型の特性があるかもしれないと知った時、すべてが腑に落ちました。忘れ物の多さ、提出物が出せないこと、集中力が途切れやすいこと——あれは息子の「怠け」ではなく、特性だった可能性があるのです。息子の通っていた学校の厳しい管理教育は、ADHD不注意型の特性を持つ息子にとって合わない環境だったのかもしれません。整理整頓を求められ、細かいルールで縛られ、少しの逸脱も許されない。息子は「できない自分」を毎日突きつけられていたのだと思うと、あの学校に入れたことへの後悔は尽きません。
水の中にいる魚に「空を飛べ」と言い続けていたようなものだったのかもしれません。管理型の学校で整理整頓や細かいルールを求められることは、ADHDの不注意型の子にとって、それくらい本来の特性と正反対のことを要求されているのだと、今なら分かります。
教育費は膨大でした(費用の詳細はこちら)。退学という結末を前にして、大金をかけた結果、息子を追い詰めてしまったという事実が、何より重くのしかかりました。
転校手続きの流れ——やることは意外とシンプルだった
私立中学校の退学と公立中学校への転校。手続き自体は、やってみると思ったより単純でした。
- 教育委員会に連絡:地元の教育委員会に電話し「私立退学→公立転校したい」と伝える。必要書類を案内してもらえる
- 在籍校から転校書類を受領:在学証明書・教科書給与証明書を発行してもらう(退学届と同時手続き可)
- 新しい公立中学校に書類提出:教育委員会指定の学区校に書類一式を持参。書類のやり取りだけなら1〜2週間で完了
書類のやり取りだけなら1〜2週間で完了します。ただ、手続きそのものよりも、息子の気持ちの整理のほうがずっと大変でした。
私の場合——転校手続きは思っていたよりシンプルでした。役所と学校への連絡、書類を数枚出すだけ。手続きの方は簡単なのに、気持ちの整理の方がずっと大変でした。
公立中学校への転校——希望と現実
地元の公立中学校に転校することになりました。同じ小学校だった友達が何人か通っていて、息子がLINEで「地元の中学に通うことにした」と報告した時、誰も理由を聞かず、ただ「やったー」と喜んでくれたのです。約1年間交流が途絶えていたのに、そんなことは関係ないとばかりに。学校側も、家が近い友達と同じクラスにしてくれるなどの配慮がありました。息子はその友達に「どうしたら友達できるかな?」と聞いていたほど、前向きでした。
転校して1日目、『今日はどうだった?』と聞くと、息子は真顔で『楽しかった』と答えました。2日目も同じ。でも私には分かっていました。息子には、思っていなくても私が喜ぶから『楽しかった』と言う癖があるのです。本当は不安でいっぱいだったはずなのに、私を安心させようとしていた。
でも、現実は厳しかった。
転校して2日通った息子は、3日目から学校に行けなくなりました。
- 前の私立中学校と公立中学校の雰囲気の違いに馴染めなかった
- 大好きだった私立の友達に会えない喪失感が大きかった
- 新しい環境でまた一からやり直す気力が残っていなかった
息子にはプライドもあったのだと思います。難関校に通っていた自分が公立に転校する——その事実を受け入れるのは簡単ではなかったはずです。それに、息子の通っていた私立中学校ではスマホを持ち込め、食堂やお菓子の自動販売機、売店もあり、友達とスマホゲームをしながら電車で通学する毎日でした。歩いて帰る公立中学校は、息子の目には物足りなく映ったのかもしれません。
そこから1学期の間、息子は完全な不登校になりました。
元の学校の友達との関係
救いだったのは、私立中学校の友達とはLINEでつながりを維持できていたことです。退学の時に一人一人にメッセージを送っていた友達から、時々「元気か?」と連絡が来ていました。たまに遊びに行くこともあり、学校は離れても友情は続いている。それが息子にとって大きな心の支えになっていたと思います。
別の記事でも触れていますが、転校後の学校行事にも足を運びましたが、周りは夫婦で来ている家庭ばかり。ひとりでぽつんと座っている孤独感は、想像以上に堪えました。息子に「来なくていい」と言われた体育祭には結局行けず、後から友人に「息子くん、応援団やっててかっこよかったよ」と聞いた時、行けばよかったと胸が痛みました。シングルマザーで学校行事に出るたびに感じる疎外感——それでも息子の姿を見られるのはあと数回しかないのに、と後悔ばかりが募りました。
地元の友達が息子を支えてくれた
不登校になった息子を、地元の友達は見捨てませんでした。「明日はこれる?」と連絡をくれる子、「無理するなよ」と言ってくれる子。幼稚園から小学校まで9年間一緒に過ごした仲間は、1年間のブランクがあっても変わらず息子のそばにいてくれました。
2学期に息子が少しずつ学校に行き始めた時、友達は大喜びして毎朝チャイムを鳴らして迎えに来てくれるようになったのです。頭のいい子から成績が悪い子に変わった息子を、馬鹿にする子は1人もいなかった。「お前ちゃんと課題出せよー」と心配してくれて、息子は冗談っぽくこう強がっていました。
ありがとう。本当にありがとう——私は心の中で何度も、息子の友達にお礼を言い続けました。あの子たちがいなかったら、息子はもっと長い間、部屋から出てこられなかったかもしれません。
魂が抜けたような息子を見て
不登校になった息子は、食事も家族と取らず、自分の部屋に閉じこもっていました。
私の場合——退学後の数日間、息子はリビングで三角座りのまま動けなかった。私はその3日間、自分が何をしていたかほとんど覚えていません。
まるで魂が抜けたかのようにぼーっとしている息子を見て、私は毎日自分を責めてため息ばかりついていました。
「あの学校を勧めなければ」「もっと早く辞めさせていれば」「私のせいで息子の人生がめちゃくちゃになった」
シングルマザーとして一人で子育てをしてきた中で、一番つらい時期でした。
そして何より胸が痛んだのは、退学によって息子が大切な友達を失ったことです。LINEで一人一人に別れを告げたあの友達と、もう同じ教室で笑い合うことはない。部屋から聞こえてくるギターの音が、余計に切なかった。あの子は今、何を思いながら弦を弾いているんだろう——私はその音を聞くたびに、退学させた自分を責めました。
退学の手続きが終わった後、私立中学校の教科書やプリントは処分しました。見るだけで当時の叱責がフラッシュバックするからです。でも、制服だけはどうしても捨てられなかった。初めて袖を通した日、「ちょっと大きいね」と笑い合ったこと。友達と肩を組んで帰ってくる姿。あの日々が詰まった制服を、押し入れの一番奥にしまい込みました。半年間、あの押し入れを開けることができませんでした。
息子を家に1人にしておくのがかわいそうで、仕事時間を減らしてもらって早く帰るようにしました。収入は減りましたが、帰宅して息子の気配を感じるだけで少し安心できたのです。
フリースクールも専門家も費用の壁がありました(支援制度はこちら)。シングルマザーの収入では手が出ず、お金をかけても、かけなくても、出口が見えない日々が続きました。
それでも、息子は少しずつ動き出した
1学期の間、心と体を休めた息子は、2学期から少しずつ学校に行けるようになりました。最初は週に1日、やがて週に2日。
転校後、約10日ぶりに息子が自分から学校に向かった日のことは忘れられません。スマホに校門通過の通知が届いた瞬間、涙で画面が見えなくなりました。「今日は辛いことがありませんように。友達と楽しく過ごせますように。笑顔で帰ってきてくれたら嬉しいな」——祈るような気持ちで仕事に向かいました。
公立中学校の先生が段階的に進めてくれた
きっかけのひとつは、公立中学校の吉岡先生(仮名)の対応でした。いきなり三者面談ではなく、まずは「週に1回、10分だけプリントを取りに来るところから始めましょう」
と提案してくれたのです。他の生徒に会わない時間帯をわざわざ選んでくれたおかげで、息子も「プリント取りに行くだけならいいよ」と、少しずつ学校に足を運ぶようになりました。週1のプリント取りが定着すると、次は保健室登校へ。先生が「週1プリント取り→保健室登校」と段階を踏んでくれたことで、息子は自分のペースで学校との距離を縮められました。
その後の面談では、保健室の先生も一緒に「退屈じゃないか? 遊びに行っていいんやぞ」とフランクに話しかけてくれました。前の学校では厳しい口調で指導されることが多かったので、息子は帰り道に「前の学校と全然話し方違ったねぇ」と驚いたように言っていました。勉強やLINEのことばかり言う前の先生とは違い、家でひとり孤独に過ごしていないか心配してくれる——この先生なら息子を傷つけない。私は心の底から安心しました。そこから保健室登校が週1回で始まったのです。
課題が1つも出ていないことを指摘された面談でも、先生は威圧的ではありませんでした。困った顔で「どうして出せないんや? なんか困ってるんか? 先生できることあれば協力するからな」と。午前中ずっと寝ている息子のことも、怒るのではなく「こんなに寝るなんて大丈夫か? と色んな教科の先生に言われるんや。夜寝れないんか? 朝しんどいんか?」と心配してくれました。不登校で1週間休んだ時には「顔見に行っていいですか?」と連絡をくれたことも。息子も、この学校では「悪い子」として扱われないんだと、ホッとしたのだと思います。
※これは息子が通った学校の場合の話です。私立中学校にも素晴らしい先生はたくさんいらっしゃいますし、公立でも合わない場合はあるでしょう。ただ、息子にとっては管理型の環境より、見守ってくれる環境のほうが合っていたのだと、転校して初めて分かりました。
勉強は中学1年生の途中から完全にストップしていたので、授業についていくことはできませんでした。成績は最下位に近い状態です。
でも、学校に「行ける日がある」というだけで、私にとっては大きな進歩でした。
転校後の勉強をどう再開したか
ここまで読んだ方の中には、今まさにお子さんの転校を考えている方もいるかもしれません。私の経験がすべてではありませんが、少しでも参考になれば嬉しいです。
不登校からの学び直しに通信講座が合っていた理由
退学後の日々で見えた、息子の本当の気持ち
前の学校の文化祭に行った2日間
退学して10か月ほどが経った頃、前の学校で文化祭が開催されました。息子はみんなに会いたくて、自分から行きたいと言い出したのです。土曜日と日曜日の2日間の開催で、息子は両日とも参加しました。
私の場合——楽しい時間の後に1週間動けなくなる体だと、あの秋に知りました。行かせてよかったのか、今でも答えは出ていません。
もともと通っていた校舎で、たくさんの友達と笑い合える——あの2日間は、息子にとってとても幸せな時間だったと思います。
その頃には転校先の公立中学校にも週に何度か通えるようになっていました。少しずつ前に進んでいるように見えていたのに、文化祭に参加した翌週、息子は1週間学校に行くことができませんでした。ベッドの中で無気力な状態が続いていたのです。
前の学校の友達と過ごした楽しい時間の反動がきたのだと思います。学校を辞めたことを後悔しているのではないか。毎日何時間も過去の思い出を思い返して、ベッドで唇を噛んで堪えているのではないか。心配でたまらなかったけれど、どう声をかけていいか分かりませんでした。
いつもなら私が部屋に入るだけで「勝手に入るな!」と怒鳴る息子が、その週は違いました。話しかけても「うん……」と小さくうなずくだけ。目も合わせない。片時も手放さなかったスマホも、枕元に置いたまま触ろうとしない。友達とのLINEも、大好きだったオンラインゲームも、何もしない。ただベッドの中で丸くなっている。
ベッドで丸くなる息子を見ながら、私は何度も部屋の前で立ち止まりました。前の学校への未練、大好きだった友達と過ごす当たり前の日常を失った喪失感――息子の心はもうズタズタになっていた。それでも息子は塗りつぶしてしまうのではなく、自分の言葉で「人には言えない理由があってだいぶ大変」と苦しさを伝えようとしてくれていたのです。
当時、私は息子が部屋にこもっている時間、ネットで「不登校 中学生 心境」と何度も検索していました。出てくるのは、「俺の人生終わったな」「もうダメかもしれない」「世間の人に自分はどう思われているんだろう」「頑張っている同級生に顔向けできない」――そんな言葉ばかりで、自分を悲観的に見つめて自室から出られない子どもたちの声が並んでいました。息子も今、隣の部屋で同じことを考えているのだろうか。そう思うたびに、ドアの向こうに駆け寄って「そんなことないよ。あなたなら大丈夫だから」と抱きしめて言ってあげたかった。でも反抗期真っ只中の息子に、その言葉はもう届かないことを、私は知っていました。だから、口にすることができなかった。
そんな朝、息子から届いたLINEがこれでした。

「いつか絶対親孝行するから少しの間だけ休ませて欲しい」――こんなにボロボロになっていながら、息子は立ち上がろうとしてくれていたのです。「しばらく」でも「ずっと」でもなく「少しの間」。回復したいという意思が、その短い言葉にちゃんとあった。そしてこんな未熟な私に対して「親孝行する」とまで言ってくれたのです。本当なら、私が先に息子を支えるべきだったのに、息子のほうが先に私を気遣ってくれていた。
それなのに私が返したのは、「少しの間って?普通の高校行けなくなってもいいの?」という冷たい言葉でした。出席日数と進学のことばかりが頭にあって、息子の気持ちをねぎらう余裕がまるでなかった。「辛かったね」「よく言葉にしてくれたね」「ゆっくり休んでいいよ」――そう返してあげるべきだったのに。こんな最低な母親に、私は一体いつからなってしまったんだろう。今でもこのLINEを見返すたびに、息子の優しさと自分の未熟さに胸が締め付けられます。
ある夜、息子からこんなLINEが届きました。

「二度と入ってくんな」——部屋に食事を届けることすらできない。このLINEが来てからは、息子の部屋のドアの前に黙って食事を置くしかありませんでした。
怒られる方がまだ安心できた。反抗するエネルギーすら残っていないということが、どれほど危険な状態か。あの1週間は、息子の心が完全に止まっていた時間だったのだと思います。
私は気づいていました。1年間親しかったとはいえ、学校を辞めた息子と毎日学校で会っている友人たち——その距離は、時間とともに開いてしまう。いくら息子が前の学校の友達を求めても、いつか相手にしてもらえなくなる日がくることを。離婚が私の人生で一番苦しい体験だと思っていましたが、我が子が苦しんでいる姿を見るのは、それをはるかに超える辛さでした。
コンビニのおでんと、前の学校の友達
反抗期がおさまり始めた中学2年生の冬。一緒にコンビニに入った息子が、レジ前のおでんをじっと見ていました。こんにゃくを1つ買って、家で食べながら、ぽつりと話し始めたのです。
「前の学校の帰り、みんなでコンビニ寄ってさ。1つのこんにゃくのおでんを一口ずつ分けて食べてたんだよ」
懐かしいことを思い出すように、少し寂しそうに笑っていました。息子はまだ、前の学校に未練があるんだと思います。あの友達とそんなふうにふざけ合える日常がもう戻らないと分かっていて、それでもこんにゃくのおでんを買った。その姿を見ていたら、胸が締め付けられました。
成績表の「ハイフン」がなくなった日
学期末、息子が自分から成績表を見せてくれました。初めてのことでした。
1学期はすべての教科が「ー」(ハイフン=判定不能)だった成績表。それが——すべての欄に数字が入っていたのです。1や2ばかりでしたが、そんなことは関係ない。息子が少し照れたように「ハイフンなくなったよ」と笑った時、私は「よく頑張ったね」としか言えませんでした。
私の場合——通知表の数字が全部埋まった日、息子が嬉しそうだったのが救いでした。
「その後」に待っていたもの
中学3年生になった息子は、家庭学習と出会い、自分のペースで勉強を再開。約1年後には全日制の高校に合格しました。
今は自分に合ったレベルの高校で、友達もでき、提出物も出せるようになり、問題なく通えています。
年間100万円以上かけた私立中学の教育費。でも今、息子が真剣に選んでいるのは半額シールの貼られた靴でした。靴屋さんでずっとウロウロしている息子に「早く選んだら?」と声をかけると、「半額セールのを探してる」と言って定価の靴に手を伸ばそうとしない。息子なりの気遣いだと分かっていても、胸が痛かった。この子にはもっといい靴を履かせてあげたいのに——。シングルマザーとして必死に働いてきた日々を、息子はちゃんと感じ取っていたのです。嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気持ちになりました。
退学して公立に転校した時、正直に言えば「レールから外れてしまった」という絶望感がありました。教育に力を入れる家庭に育ち、偏差値や学歴が人生を決めると信じてきた私にとって、中高一貫校を1年で辞めるなんて、人生の失敗そのものに思えたのです。
でも息子が少しずつ笑顔を取り戻していく姿を見ていると、「レールに乗せなきゃ」としがみついていた自分が、少しずつほどけていきました。この子が笑って過ごせる場所さえあれば、それで充分なのかもしれないな——そう思えるようになるまで、ずいぶん時間がかかりましたけど。息子自身も、転校先で「ここでやり直そう」と自分なりに折り合いをつけていったみたいでした。親子でゆっくり、思い描いていた道と違っても大丈夫、と受け入れていった日々だったように思います。
あの退学は、うちの親子にとってはやり直しのスタートでした。
そしてある日、息子が自分からこう言ってくれました。
「転校して良かった! 今の学校の方が僕に合ってるわ」
ずっと抱えていた「転校させたのは正しかったのか」という問いに、息子自身が答えをくれた瞬間でした。あの一言で、私の中の後悔がようやく溶けていきました。
今もし、お子さんの退学や転校で悩んでいる方がいたら伝えたいです。環境を変えること自体は悪いことじゃないと思います。うちの場合は、転校した先で息子に合う場所が少しずつ見つかっていきました。時間はかかったけど、焦らず一緒に探してあげられたらいいですよね。
息子がどうやって勉強を再開し、高校合格にたどり着いたかはこちらの記事で詳しく書いています。
我が家が使った通信講座はこちら
不登校からの再スタートに自宅学習がどう役立ったかは、おすすめ通信講座5選をご覧ください。
転校先でも不登校が続いた息子が勉強を再開できたのは、通信講座があったからです。学校に通えなくても、自宅で学べる環境を整えたことで、息子は少しずつ自信を取り戻していきました。
みっこの本音——退学は終わりじゃなかった
退学を決めた日、私は「この子の人生を壊してしまった」と思いました。でも今、息子は自分で選んだ高校に通って、たまにぽつぽつ休みながらも、自分のペースで暮らしています。
退学は終わりじゃなかった。回り道の入口だった。そう思えるようになるまでに、ずいぶん時間がかかりました。正直、今でも完全には消化しきれていないです。
- 私立中学校を1年で退学→公立に転校→再び不登校に。手続きは簡単でも気持ちの整理が一番大変
- 「辞める」ではなく「諦める」と綴られたLINE。子どもが限界に達する瞬間を見逃さないで
- 息子の起立性+ADHD不注意型グレーゾーンの特性と、管理型学校の相性の悪さ。水の中の魚に「空を飛べ」と言っていたようなもの
- 転校手続きは3ステップで1〜2週間。教育委員会→在籍校→新校の順で完了
- 元の友達はLINEで繋がり続けた。地元友達は「お前ちゃんと課題出せよー」と迎えに来てくれた。友達が支えになる日は来る


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