難関私立中学に合格した息子。でもその喜びは長くは続きませんでした。
入学してすぐに起立性調節障害が再発し、学校に行けなくなり、先生との関係も悪化。1年で退学を選び、地元の公立中学に転校しました。
この記事では、私立中学の退学から公立への転校、そしてその後の不登校について、包み隠さずお話しします。
退学を決めた日のこと
中学1年生の春休み。膨大な課題をこなせず、「これを提出しないと赤点で学校を辞めさせられる」というプレッシャーの中、息子は夜遅くまで机に向かっていました。
そしてある日、ぽつりと言いました。
「もう、この学校は諦める」
私は「分かった。よく頑張ったね」と答えるのが精一杯でした。
息子はその後、丸1日ベッドの上で放心状態でした。三角座りをして、ただぼーっとしている姿を見て、胸が締め付けられました。
友達への別れのメッセージ
退学を決めた3日後、息子は友達一人一人にLINEでメッセージを送っていました。
「学校を辞めることにした。今までありがとう。お前とはこんなことをしたよな。楽しかった。」
たった数ヶ月しか通っていないのに、息子にとってその友達は本当に大切な存在だったんです。丁寧に、一人一人に感謝を伝えている姿を見て、私は涙が止まりませんでした。
なぜこの学校を選んでしまったのか
正直に言うと、この学校を選んだ理由は校風だけではありませんでした。私の母方の親族はほぼ全員が医師で、「医者になるのが当たり前」という空気の中で私は育ちました。離婚してシングルマザーになってからも、「せめて息子を医者にしなければ」という思いがずっと頭から離れなかった。医学部進学実績の高い中高一貫校にこだわったのは、息子のためというより、私自身が親族の期待に応えたかったのだと、今になって分かります。
実は私が中学生だった頃、この学校は自由で伸び伸びした校風の学校でした。「この学校なら、友達とのんびり青春を過ごせる」と思って息子に勧めたんです。
でも数年の間に学校の方針は大きく変わり、進学実績を重視する厳しい管理型の学校になっていました。
- 忘れ物をしただけでクラス全員の前で強く叱責される
- LINEの内容を細かくチェックされ、些細なことで親が呼び出される
- 担任から「お前のことは信用していない」「公立に転校しろ」と言われる
- 退学の権限がない教師が、勝手に退学を促す
私はそんな変化を知らずに息子を入学させてしまいました。その自責の念は、今も消えません。
後になって息子にADHD不注意型の特性があるかもしれないと知った時、すべてが腑に落ちました。忘れ物の多さ、提出物が出せないこと、集中力が途切れやすいこと——あれは息子の「怠け」ではなく、特性だった可能性があるのです。息子の通っていた学校の厳しい管理教育は、ADHD不注意型の特性を持つ息子にとって合わない環境だったのかもしれません。整理整頓を求められ、細かいルールで縛られ、少しの逸脱も許されない。息子は「できない自分」を毎日突きつけられていたのだと思うと、あの学校に入れたことへの後悔は尽きません。
中学受験の3年間でトータル300万円以上。入学後の1年間で私立の学費と塾代を合わせると、教育費は400万円を超えていました。それで息子が幸せになるなら惜しくなかった。でも退学という結末を前にして、「400万円かけて、息子を不幸にしてしまった」——そう思わずにはいられませんでした。シングルマザーとして必死に働いて貯めたお金です。金額の問題ではなく、大金をかけた結果、息子を追い詰めてしまったという事実が、何より重くのしかかりました。
転校手続きの流れ——やることは意外とシンプルだった
私立中学の退学と公立中学への転校。手続き自体は、やってみると思ったより単純でした。
- 教育委員会に連絡:まず地元の教育委員会に電話し、「私立中学を退学して公立中学に転校したい」と伝えました。担当者は慣れた様子で、必要な書類を教えてくれました。
- 在籍校(私立中学)から転校書類をもらう:在学証明書と教科書給与証明書を発行してもらいます。退学届と同時に手続きできました。
- 新しい学校(公立中学)に書類を提出:教育委員会から指定された学区の公立中学に、書類一式を持って行きました。
書類のやり取りだけなら1〜2週間で完了します。ただ、手続きそのものよりも、息子の気持ちの整理のほうがずっと大変でした。
公立中学への転校——希望と現実
地元の公立中学に転校することになりました。同じ小学校だった友達が何人か通っていて、息子がLINEで「地元の中学に通うことにした」と報告した時、誰も理由を聞かず、ただ「やったー」と喜んでくれたのです。約1年間交流が途絶えていたのに、そんなことは関係ないとばかりに。学校側も、家が近い友達と同じクラスにしてくれるなどの配慮がありました。息子はその友達に「どうしたら友達できるかな?」と聞いていたほど、前向きでした。
でも、現実は厳しかった。
転校して2日通った息子は、3日目から学校に行けなくなりました。
- 前の私立中学と公立中学の雰囲気の違いに馴染めなかった
- 大好きだった私立の友達に会えない喪失感が大きかった
- 新しい環境でまた一からやり直す気力が残っていなかった
息子にはプライドもあったのだと思います。難関校に通っていた自分が公立に転校する——その事実を受け入れるのは簡単ではなかったはずです。それに、息子の通っていた私立中学ではスマホを持ち込め、食堂や自販機もあり、友達とスマホゲームをしながら電車で通学する毎日でした。1人で歩いて帰る公立中学は、息子の目には物足りなく映ったのかもしれません。
そこから1学期の間、息子は完全な不登校になりました。
元の学校の友達との関係
救いだったのは、私立中学の友達とはLINEでつながりを維持できていたことです。退学の時に一人一人にメッセージを送っていた友達から、時々「元気か?」と連絡が来ていました。たまに遊びに行くこともあり、学校は離れても友情は続いている。それが息子にとって大きな心の支えになっていたと思います。
転校後の学校行事にも足を運びましたが、周りは夫婦で来ている家庭ばかり。ひとりでぽつんと座っている孤独感は、想像以上に堪えました。息子に「来なくていい」と言われた体育祭には結局行けず、後から友人に「息子くん、応援団やっててかっこよかったよ」と聞いた時、行けばよかったと胸が痛みました。シングルマザーで学校行事に出るたびに感じる疎外感——それでも息子の姿を見られるのはあと数回しかないのに、と後悔ばかりが募りました。
地元の友達が息子を支えてくれた
不登校になった息子を、地元の友達は見捨てませんでした。「明日はこれる?」と連絡をくれる子、「無理するなよ」と言ってくれる子。幼稚園から小学校まで9年間一緒に過ごした仲間は、1年間のブランクがあっても変わらず息子のそばにいてくれました。
2学期に息子が少しずつ学校に行き始めた時、友達は大喜びして毎朝チャイムを鳴らして迎えに来てくれるようになったのです。頭のいい子から成績が悪い子に変わった息子を、馬鹿にする子は1人もいなかった。「お前ちゃんと課題出せよー」と心配してくれて、息子は冗談っぽく「俺偏差値30台の学校でええもん」と強がっていました。
ありがとう。本当にありがとう——私は心の中で何度も、息子の友達にお礼を言い続けました。あの子たちがいなかったら、息子はもっと長い間、部屋から出てこられなかったかもしれません。
魂が抜けたような息子を見て
不登校になった息子は、食事も家族と取らず、自分の部屋に閉じこもっていました。
まるで魂が抜けたかのようにぼーっとしている息子を見て、私は毎日自分を責めて泣いていました。
「あの学校を勧めなければ」「もっと早く辞めさせていれば」「私のせいで息子の人生がめちゃくちゃになった」
退学した学校の制服を着た生徒を街で見かけるたび、動悸が止まらなくなりました。あの制服を嬉しそうに試着した日の息子の笑顔が、フラッシュバックのように蘇る。胸が引き裂かれそうで、次第に外出すること自体が怖くなっていきました。
シングルマザーとして一人で子育てをしてきた中で、一番つらい時期でした。
そして何より胸が痛んだのは、退学によって息子が大切な友達を失ったことです。LINEで一人一人に別れを告げたあの友達と、もう同じ教室で笑い合うことはない。部屋から聞こえてくるギターの音が、余計に切なかった。あの子は今、何を思いながら弦を弾いているんだろう——私はその音を聞くたびに、退学させた自分を責めました。
退学の手続きが終わった後、私立中学の教科書やプリントは処分しました。見るだけで当時の叱責がフラッシュバックするからです。でも、制服だけはどうしても捨てられなかった。初めて袖を通した日、「ちょっと大きいね」と笑い合ったこと。友達と肩を組んで帰ってくる姿。あの日々が詰まった制服を、クローゼットの一番奥にしまい込みました。
息子を家に1人にしておくのがかわいそうで、仕事時間を減らしてもらって早く帰るようにしました。収入は減りましたが、帰宅して息子の気配を感じるだけで少し安心できたのです。
フリースクールは月4万円、専門家への相談は5万円以上。シングルマザーの収入では手が出ず、お金をかけても、かけなくても、出口が見えない日々が続きました。
それでも、息子は少しずつ動き出した
1学期の間、心と体を休めた息子は、2学期から少しずつ学校に行けるようになりました。最初は週に1日、やがて週に2日。
公立中学の先生が段階的に進めてくれた
きっかけのひとつは、公立中学の先生の対応でした。いきなり三者面談ではなく、まずは「週に1回、プリントを取りに来るところから始めましょう」と提案してくれたのです。他の生徒に会わない時間帯をわざわざ選んでくれたおかげで、息子も「プリント取りに行くだけならいいよ」と、少しずつ学校に足を運ぶようになりました。週1のプリント取りが定着すると、次は保健室登校へ。先生が「週1プリント取り→保健室登校」と段階を踏んでくれたことで、息子は自分のペースで学校との距離を縮められました。
その後の面談では、保健室の先生も一緒に「退屈じゃないか? 遊びに行っていいんやぞ」とフランクに話しかけてくれました。前の学校では厳しい口調で指導されることが多かったので、息子は帰り道に「前の学校と全然話し方違ったねぇ」と驚いたように言っていました。勉強やLINEのことばかり言う前の先生とは違い、家でひとり孤独に過ごしていないか心配してくれる——この先生なら息子を傷つけない。私は心の底から安心しました。そこから保健室登校が週1回で始まったのです。
課題が1つも出ていないことを指摘された面談でも、先生は威圧的ではありませんでした。困った顔で「どうして出せないんや? なんか困ってるんか? 先生できることあれば協力するからな」と。午前中ずっと寝ている息子のことも、怒るのではなく「こんなに寝るなんて大丈夫か? と色んな教科の先生に言われるんや。夜寝れないんか? 朝しんどいんか?」と心配してくれました。不登校で1週間休んだ時には「顔見に行っていいですか?」と連絡をくれたことも。息子も、この学校では「悪い子」として扱われないんだと、ホッとしたのだと思います。
※これは息子が通った学校の場合の話です。私立中学にも素晴らしい先生はたくさんいらっしゃいますし、公立でも合わない場合はあるでしょう。ただ、息子にとっては管理型の環境より、見守ってくれる環境のほうが合っていたのだと、転校して初めて分かりました。
勉強は中1の途中から完全にストップしていたので、授業についていくことはできませんでした。成績は最下位に近い状態です。
でも、学校に「行ける日がある」というだけで、私にとっては大きな進歩でした。
「その後」に待っていたもの
中3になった息子は、通信講座と出会い、自分のペースで勉強を再開。約1年後には全日制の高校に合格しました。
今は自分に合ったレベルの高校で、友達もでき、提出物も出せるようになり、問題なく通えています。
ある日、お誕生日祝いに焼肉に誘ったら、息子が「ママ、お金大丈夫なの?」と聞いてきました。靴屋さんでもずっとウロウロしていて、「早く選んだら?」と聞くと「半額セールのを探してる」と言って定価の靴を手に取ろうとしない。母親の苦労を、息子はちゃんと見ていたのです。シングルマザーとして必死に働いてきた日々を、息子なりに感じ取ってくれていた——そう気づいた時、嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気持ちになりました。
退学して公立に転校した時、正直に言えば「レールから外れてしまった」という絶望感がありました。医師家系に育ち、偏差値や学歴が人生を決めると信じてきた私にとって、中高一貫校を1年で辞めるなんて、人生の失敗そのものに思えたのです。
でも息子が少しずつ笑顔を取り戻していく姿を見て、私の価値観は根本から揺らぎ始めました。「レール」に乗せることが正解なのではなく、この子が笑って過ごせる場所を見つけることが正解なのだと。息子自身も、転校先で「ここでやり直そう」と自分なりに折り合いをつけていきました。親子でゆっくり、「思い描いていた道と違っても大丈夫だ」ということを受け入れていった日々だったように思います。
あの退学は、終わりではなく始まりでした。
今もし、お子さんの退学や転校で悩んでいる方がいたら伝えたいです。環境を変えること自体は悪いことじゃない。大切なのは、その後に子どもに合った道を見つけてあげることです。
息子がどうやって勉強を再開し、高校合格にたどり着いたかはこちらの記事で詳しく書いています。
我が家が使った通信講座はこちら
不登校からの再スタートに通信講座がどう役立ったかは、おすすめ通信講座5選をご覧ください。
転校先でも不登校が続いた息子が勉強を再開できたのは、通信講座があったからです。学校に通えなくても、自宅で学べる環境を整えたことで、息子は少しずつ自信を取り戻していきました。


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